呪術廻戦が好きだ

実はかなり漫画が好きだ。高校1年の頃、恋仲の人から「ピッコマ」という漫画アプリをおすすめされてから数年、今見返せば閲覧作品「492」という数字が画面に表示されている。実のところ1年半ほど前まで自分が漫画が好きなんだと言うことすら気づいておらず、漫画好きのある方から「閲覧作品、388って…」と言われた時に初めてその数字の存在と私の漫画に対する特異性を認識した。

尊敬している宇多田ヒカルさんが40の誕生日の生配信で「どうやったらいい歌をつくれるようになるでしょうか」という質問に「良質なインプットから良質なアウトプットは生まれると思っているので、そういう人にはどれだけ本を読んでいますか?と聞きたい」と自分の最近読んだ本の紹介を交えておっしゃっていたし、無意識にしろ500近い漫画に触れている自分が最近では少し誇らしい。

実のところ動機はかなり不純でしかも趣味もない友達もいない自分がドーパミンを貪るような時期にYoutubeを何度も何度もリロードしていたり、とにかく時間を注ぐ空間を探していたのだと思う。

そんな自分も、半年ほど前から大脳前頭葉の存在を意識しはじめ、理性により漫画を探し・読むようになってからかなり目利きが聞くようになってきた。今まで使ってこなかった「お気に入り」機能を使い、いい作品にはピンをしている。逆にいままでは使っていなかったことが恥ずかしいがやはり道具はつかいようで、さらに身体は自分の一番身近な道具であり、脳みそも身体の一部である。

ここまできて思うのは、漫画にしろ曲にしろ、小説にしろ映画にしろその骨組みには絶対に「論理」が内在している。これは聞く人が聞けば当たり前の話で、「要約」とか「解説」とか「考察」というのはその内在する論理をそのまま切り抜いている作業にほかならない。AがBと戦い、Aは負け、Aは修行しAとBとの決戦のとき、ひょんなことからBはAの父親だったことがわかる。これが論理である。当たり前だがこんな骨組みにお金をかける人はいない、みんな漫画は買ってもその「考察本」というのは買わない。だからそもそも書店に並ばない。じゃあ何が良さを出すのかといえばその論理にどう肉付けをするのかという話で漫画なら絵の綺麗さ、構図(見せ方)、台詞割、伏線、などなど色々あると思う。漫画を描きたいと言って1枚絵ばかり練習している者を知っているがそれは漫画を描きたいのではなく絵を褒めてほしいという内心と取り違えているのではないかと思う。

そういえば限りなく論理が軽薄もしくは突飛でかつ魅了されるものがあってそれを私は芸術(アート)と呼んでいるが割に好きである。「いい絵というのは何度見ても飽きず、また説明的ではない」これが今のところの私の定義付けである。理由はそれを言ってくれていた女性が大変美しかったということが多分にあると思う。

銀魂の作者はこんな事も言っている。

妊婦は鼻の穴からスイカ出すような苦しみに耐えてガキを生むもんだ 芸術家はケツの穴から宇宙ひねりだすような苦しみに耐えて作品生み出すんだ 芙蓉編/坂田銀時

最近はサカナクションというユニットの曲を聞いているがこちら側だなあと思っている。余談だがYoutubeで「ヴォっクション」というプレイリストに保存している。(魚(うお)クション)

あーあー長くなった。今日は呪術廻戦の話がしたくて「漫画」から引き出しを漁っていたらえっちらほっちら申し訳ない。少年漫画は内在する論理が軽薄なものが多い気がして大概、そんな好きになることは少ないのだけど呪術廻戦や鬼滅の刃はダンダダダン、チェンソーマンはすごく好きである。今日はその呪術廻戦の話をしたい。

生得領域

最近佳境に入ってきた呪術廻戦、是非見てほしい。もうすっごいんだから。アニメの二期の主題歌が好きなアーティスト(シンガーソングライターというべきなのかな)に決まったこともあり個人的にかなり盛り上がっている。BLEACHの主題歌も歌っていたし、彼もメジャーまっしぐらかあと勝手ながらうきうきしている。

今日書こうと思ったのは実は内容うんぬんではなく作品の中に使われている表現(難しく言うとメタファー)について頭の中にいくらか描きたいことが浮かんだからである。だからだいそれたネタバレもしないし品のない批評もするつもりはない。

作品の大筋は「呪力」というエネルギーを使い、敵と戦う。ただそれだけである。戦わなければならない理由、戦いの所々、技の種類、落とし所、そこら辺はもちろん語るべきことはあるのだけど、その設定(制約)の中に「必殺技を使うとキャラクターの心象風景が映る」というものがある。この章ではそのことについて語りたい。

実は人の中に眠る心象風景(生得領域というのだけど)は必殺技(領域展開というのだけど)を使わずとも映し出されているなあと思う。例えば服を買うとき、自分の選んだ服の左隣のものでもなく右隣のものでもなくその服を選んだことには明確にわけがあるはずなのだ。勘違いされやすいのはそれは意識的なものばかりではなく、すなわち心のなかで「〇〇が□□だから」という論理を言語化せずとも見えない力で働きかけてきているはずである。だからこそ説得力がある。

今、服の話をしたがそれは使っている道具なり、細々とした仕草なり、使う言語体系なり全てに現れているようなきがする。だから、私はそれらを総合的に照らし合わせて他人を推し量っている。これは余り褒められたことではないが、みんな言語化はせずともこれを少なからず行っている。「〇〇ってさ□□だよね」とゴシップのようにいっている人間なぞ正しくそれである。「だれだれってなんか雰囲気かっこよくない?」は少なからずこれである。

しかし、その正答率はピンからキリまで合って大半の人は見当違いな見聞を散見させる。私はそれをもってまたその人のプロファイリングを上書きするのだけど、この作業の上手い人はそれなりの目をする時があるというのが私の持論である。なんというか、とろんと溶け出したような別の次元をつまりは私の内部を見透かしているような目をする人というのがいて、ある人はそれを「スカウター」と言っており言い得て妙だと思う。

これは存外に自分の分析にも使えて最近体育の授業で寝巻き兼、運動服をそのまま着ていったときや他の諸処の事情で自分の服から異臭を振りまいて他人に迷惑を掛けたことがあって、自分のがさつさを認識して少し反省した。他にも最近少し忙しいので机の上は散らかっている。そういうのを見て、ああ、そうかと心象風景を整えるのである。そういえば、自分は服に興味がない(と思っていた)時期があったが毎朝見る自分が”なんとなく”嫌でいても立ってもいられなくなり、初めて財布を持って服屋に行ったことがあった。今ではそんなことはないので、自然と珠が穴に入っていくように自分の落ち着きどころにスポッとハマるものなのかもしれないなとも思う。だから、心象風景を見透かされたような気になって不安になった人や、「自分の心象風景を覗くなんて破廉恥だ」と思った人はきっとまだその落とし所にはまっていないのだと思う。

なりたい自分というのもあって、つまり少し背伸びした、心象風景に映っていないはずの情景を顕現させる人というのも稀にいる。服で言うと服に着られていて、道具で言うと道具に使われるのが大半だけど、心象風景も変わっていくからいつかいい塩梅のところに落ち着くと思うので背伸びはいくらでもするのがいいのじゃないかなと思う。私も携帯のアプリにはたいへん使われてきたけどやっとそれを御せるようになってきた。その暴れ馬に乗ってみないと不可能なことだったので若いうちにやっておくのが良い。