デジタル社会が浸透してもう何年経つだろうか。これは個人的な見解になるのだが、日本でデジタル社会が本当の意味を持つようになったのは皮肉にもコロナ禍の時だった。僕は宮崎県の10万人都市である都城市というところの高専にいたのだけど、コロナ禍以前は”学力”にこだわりのある社会(歴史)の先生が「スマホの利用なんて」と言うほど学校ではスマホやPCの使用と持ち込みは禁止されていた。しかしコロナ禍になり、遠隔授業を導入せざるを得なくなった時を皮切りにlaptop,スマホの利用が解禁されたのだ。teamsの利用が活発に行われるようになったのもその時期からだった。
ビジネスシーンでもZoomによる飲み会やリモート出社などが(本格的に)行われるようになったのもこの時期だろう。それを象徴するのが、テレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!」である。このドラマの1シーンでは、「Zoom飲み会」が描かれる。IT企業に勤めているとはいえ、Zoomを使って遠隔で”仕事”に関わるのは社会としてコロナ禍以前では考えられなかったことだろう。
しかし、遠隔授業やリモート出社、デジタル社会がもたらした孤独とストレスは当時から計り知れないと言われていた。やはり人間にはリアルコミュニケーションが必要なのだということは、その時期にリアルタイムで高校生をしていた身からすると実感と共に主張したい一事実である。
今日話したいのはデジタル社会、さらには現代の価値観がもたらしている貧困思想についてだ。そして主張したい。紙は贅沢品である。そして「贅沢は味方」である。この言葉は東京事変の『キラーチューン』の歌詞なのだけど、戦時下に言われた「贅沢は敵だ」に準えての言葉だろう。贅沢していて何が悪い。なぜ皆贅沢をしないのだ。もちろん破産しろとは言わない。物事には節度がある。当たり前の話だ。デジタルでメモを取る?デジタルで予定を記録する?検索できるから楽?大いに結構だ。ただ、「それらを紙でやる」のは非効率だからだめなのではない、コスト(金銭的、時間的)が高いけどその分得られるものがある贅沢なのだ。一般的に贅沢をするしないは個人の自由だ、不必要だからと言ってしない人もいるだろう。記録、検索やソートに時間がかかるかもしれない。場所を取るかもしれない。何より一冊980円から2000円の手帳を使うのは高すぎる。しかし、それを贅沢と捉えてみる。それがこの原稿の出発点だ。
失われた30年の100均文化、言葉を選ばずにいうなら貧困思想の蔓延
まず前提として主張したい。僕は無印良品の商品の数々が好きだ。無印良品の手帳を使っているし、無印良品のカレーをよく食べているし、あそこの出している数々のアイデアにはいつも感嘆している。その前提の上で、あの製品群は100均文化の延長線上にあり、それは失われた30年がもたらした貧困思想がもたらした「安くて均一なものが正だ」という文化の延長線上にあるという時代批判をしたい。まずそこから主張したい。
僕は文化人類学者でも歴史学者でも批評家でもないので、専門的な文献にあたっているわけではないのは、また頭に入れていて欲しいのだけど、バブルの崩壊時期と100円均一ショップの普及は整合していると考えられる。ある記事では100円均一ショップは「デフレの申し子」と言われている(https://newspicks.com/news/5778033/body/)
父に話を聞いても、バブル当時100均などというものはなかったし、若者がお金を使うものといえばDCブランドで高級な服を買うのが一般的だったと言われている。
言葉を選ばずにいうなら、家具や小物をビンテージものではなく100均で買うのは貧困思想そのものなのだ。そして僕もその一人だということを強調しておきたい。僕は2026年現在で22歳、今年度で23歳になる。失われた30年(35年とも言われるが)の後半の20年を、というか生まれてからこのかた失われてしかいないのだ笑。しかし、そこで何も得られなかったとは思わない。僕らは僕らの文化を培い、獲得していった。そして得られたのが推し活文化、ファンダム経済だろう。若者の”贅沢”はアーティストやシンガーソングライターのライブやグッズになったのだ。その文化への批判もよく見受けるが僕はかなりその文化を”推し”ている。
話を戻そう。失われた30年で得られたのは貧困思想という話だった。これは直感的も理解しやすい。デフレなのだからそうなるのは必然のように感じられる。だからと言って日本が経済成長するわけではないので、これ以上その話をするのはやめよう。人が環境(時代)を作るのではない環境(時代)が人を作るのだ。(ブレーズ・パスカル)これから話したいのは、デジタル社会に見られる「効率化」や「ミニマリズム」思想もその貧困思想の表れなんじゃないかという話である。
「デジタル化」=「効率化」=「貧困」なのではないか
デジタルについて、ここでも僕の前提的な立場を話しておこう。僕はデジタル製品、SaaSが大好きだ。Notionも使い尽くしたし、Obsidianも使っている。今では、ddocsという製品でこの原稿のdraftを書き、leaflet.pubというATProtocolアプリで公開してそれをBlogに自動同期している。だからデジタル社会の全てを否定したいわけではないのだ。DXも大事だろう。生産性も上げなければ、デジタル赤字は早急に無くすべきものだ。その上で、ここで話したいのは「個人」の豊かさと生活の観点での話だ。
僕は予定管理は主にGoogle calenderやTodoistを使っている。読書のメモにはGitHubの「quotation」リポジトリを自作してそのディスカッションで行っている。読書記録もBookHiveというアプリを使っている。統計処理やグラフ化に便利だからだ。約5年で94冊読んだらしい。”その上で”僕は無印良品の手帳を使っているし、B5のノートを使って日記も書いている。その理由は簡単だった。これは完全に自分の感覚の話なのだけど、Google calederの予定は通知をしてリアルタイムでリマインドするのに適しているが見返すのに適していないのだ。思い出にはならない。しかし、ノートや手帳は物質としてそこに残っていのでパッと手に取って見返せる。左から右にソートされているから検索もそんなに必要ない。10年経っても覚えておきたいこと(直近の活用例で行けば母方のひいお祖母ちゃんの墓の場所とか)を記録するのに向いているのだ。
紙は高い。時間もかかるだろう。しかし、手触りもあれば匂いもあり、何より物質として形に残る。そこには2次元の光と音には残らない高次元な「手触り」がある。コストはかかるがその分得られるものもある、まさしくこの点で僕は紙は贅沢品だと思っているのだ。
少し社会を俯瞰してみよう。僕の故郷の10万人都市では新しくできた街のカフェはサイゼリアのように番号注文になり会計は無人になった。父は「最後にありがとうございましたを言ってくれる人もいなくなってしまった」と嘆いていた。サービスの観点でデジタル化をするのは効率化としてはいいだろう。コストも低くなるし、経営層からしたら経済的で合理的な判断になるのだろう。しかしユーザからすれば非日常を味わうのに効率など求めているのだろうか。いや、確かにカフェやファミレスくらいならユーザも怒り狂うことはないだろう。時代の変容として受け入れるのがこれからなのかもしれない。しかし、よく考えてみれば効率化というのは経済合理性が高いという意味だつまり、「安いから」あるいは「均一だから」それをしているということだ。これはさっきの100均文化で話した貧困思想と何が違うのだろうか。そう、ここで言いたいのは消費者だけではなく資本家のレイヤーでも悲しきかな貧困思想が蔓延しているという主張だ。人間は確かに非効率かもしれない。それでもそこには物質があり、意志が介在し、偶然性が生まれる。それこそ社会における贅沢ではないだろうか。
贅沢は味方、貧しさこそが敵
何も別にそこまでいう必要はないかもしれないが、『キラーチューン』の歌詞だ。このデフレ社会あるいはすでにそこから脱却したインフレの始まり社会に適度な贅沢をすること。それが何かの糸口になるのかもしれないと思う今日この頃であった。