構造以前に実存があるが、構造無しにに生きれる主体は一つとしてない。

構造主義の実存主義に対する批判的主張はこのようになるだろうか。

主体は集まり群をなし、規律・法・コードを作り、あるいはそれらが自然に定まり、いくつかの通貨・価値を交換する。その様な構造に対して主体は常に差異を認識し、結果、構造への接続からの逸脱、すなわち切断を迫られる。切断とはすなわち、コードから意味を無くすこと、規律の無意味化、脱コード化である。しかしそもそも、構造から始まったように感じられる主体の認知はその構造への差異によって生まれ、また別の構造を作る、規律化、コード化の口火を切る。構造があり、差異があるのではなく、差異によって、構造は生まれている。時間的後に現れた主体は構造の中に身を置いているが故に、自然、構造のない世界に接続することはないが、やはりその認知の開始点は差異になるだろう。哲学が希求するものはこのような構造のビックバン理論的開始点ではなく、あくまでも主体における開始点である。その点で差異が構造に先立つという言説は正しい様に思われる。

だいたいこんなとこかな。実存主義から構造主義、ポスト構造主義への流れは。「切断を迫られる」っていうのは「意味的・非意味的」なものがあるというのを加えると生きやすくなる。

 さて、とりあえず先のパラグラフを構造主義、ポスト構造主義の定義だとする。間違いがあったら訂正する。その上で個人的に換言を行ってみる。


 ここで使われている構造をゲームと換言してみる。規律・コードをゲームルールあるいは単にルールと換言することにする。ゲームとは「リスクの最小化とリターンの最大化を目的としたシステム」である。つまり、「構造」をそう定義し直す。僕らは常にいくえものゲームに参加し、あるいはさせられ、その差異を認識し、ある主体は人形遊びやおままごとによって理想とするゲームを構築する。しかし、それには根本的なルールの破綻により切断を迫られる。やっぱり違うな、と。そのような運動を繰り返す中で差異の相対としての自己が否定神学的に出来上がる。主体はあるときそれを「本来の自己だ」と固定化する。きっとそのような平衡点が訪れる。異化によって行われていた運動が同化に変わる時が来る。しかし、ゲームには常に自己との差異がつきまとう。僕らにはゲームの前に差異が先立っているからである。同一的な固定化されたゲームへの参加とそこで生じるリスクの最小化とリターンの最大化に躍起になった結果、主体は常に差異を認識させられる。しかし、そのゲームからはいつでも切断することができる。それは意味的・非意味的に。僕もいまふらっと自分の住んでいる街を飛び出し、どこか適当なところに行き、職を見つけ、その地域の人々から適当な助力を仰げば生きていけるだろう。十数年続けた教育の被受というゲームから意味もなく、非意味的に切断することが可能である。また、そのようにしても大成するような謎の自信もある。(やりたいことがあるので残っているのでやらないけども)

 そして、ゲームへの非意味的な切断はすなわちゲームルールの無意味化である。全ての構造に対する脱ルール化はナンセンスを産む。ニヒリズム、構造なき実存は存在しない。つまり、接続と切断は“適度に“行われなければならない。”動きすぎてはいけない“のである。僕らは意味的・非意味的にゲームに接続でき、また、意味的・非意味的にゲームから切断できる。

 つまり、主体において重要なのは多様なゲームが在ると認知することになる。また、そのようなゲームを意味的・非意味的に構築できると気づく、思い出すことなのかもしれない。そのような多様なゲームへの意味的・非意味的な、接続と切断、そして”構築“を加速させる装置を作りたい。

僕が欲しいから。

僕は常に好奇心によって駆動されている。