2023年ごろに書いたブログポストをATProtocolに放流するために書いています。
昨日からですがAIを研究しています。研究というととても荘厳な何やら難しい言葉のようですが、僕は普段からよく研究をしており、研究とは生き方のようなものに近いと思うようになっているので、もしかしたら多くの皆様方の抱く印象とは違った形でこの言葉を使っているかもしれません。 「これをすれば」「Aになる可能性」と「Bになる可能性」がある。調べたが「やってみないと確証が出ない」だからやってみると、「Aになった」その「要因を考え」考えた先にまた分岐点が訪れる。そしてどうやら調べてもその答えは無いようなので、またやってみる。単にその運動のことを僕は研究と呼んでいます。
AIの研究と言ってもまずは「言葉を作る」AIを研究しています。この”まずは”というのが長い話になりそうなのですが、直近だと言葉を僕は研究する事になりそうです。言葉を与えてより良い言葉を生み出してほしい、ただそれだけのモチベーションによって世界中の研究者・企業の方が今躍起になっています。不思議なものですね。 より良い言葉を理解してもらうためにはよりよく言葉をカテゴライズする必要がある気がしています。まだ、”気がしている”という表現を僕はあえて使いますが、これは非常に重要なことのように感じられます。僕が様々な知見、立場からそう思っている、けども、僕含め誰にも精巧に検証されていないので確証が全く取れずあまり強く受け取られたくない、という思いがあります。 言葉とは伝達において非常に重要ですからね、最近意識しています。自然、結構変な口癖もできていくのですが、ひとつひとつ辞書を作るように僕は言葉をとらえ始めています。ここ最近のことですが。
より良い言葉を理解してもらうためにはよりよく言葉をカテゴライズする必要がある気がしています。カテゴリーというのはカントと呼ばれる哲学者の哲学の中に出てくる単語です。鵜が卵が先か、カントがそれを作って広めたのかはわかりませんが、とりも直さずカントと呼ばれる人の哲学の中にはその言葉があるようです。僕はまだ彼の三書を呼んでいないので、彼とその哲学についてこれ以上の言及は避けるのですが、どうやら「言葉」にもれっきとしたカテゴリーが有り、言語学という形で体型があることを僕は今日知ってしまいいました。 昨日までは「とりあえず、カテゴライズ・構造化(僕が・を使うのは=の意味です、凡例が必要ですね笑)は大事だろう」という認識は持っていて技術的に案は出していたのですがそれを「どうカテゴライズするか」まで考えが及んでいませんでした。今日の朝、ある信頼に足るYoutubeの動画を見て、僕がいまやろうとしている分解とカテゴライズにおける”研究”を何百年と行って伝達している公理系があることを知りました。巨人の方には乗るべきですね。 最近は忙しくて忘れてたし、リマインドが機能してなかったことを理由に見れていなかった先の信頼に足るYoutube動画を上げてくださっている方の全ての動画を今日のうちに全部見ようと思います。
僕は数理が好きで今のAIに”到達”したのに、言語学の公理系に触れなければならない事実には、さすがの僕も率直に驚いています。おそらくですが、RobotやAgent(と呼ばれる研究領域・というか製品群があります)の研究をすれば確実に倫理の公理系に行き着くし、言葉からLLMに触れた人は、ベクトルや行列、その演算や内積、また各種数学の公理系に触れなけれなならないでしょう。いまは言葉と言葉の”距離”が”算出”できるようになったんですよ。ご存知ですか? 「愛してる」と「I love you」がどれだけ”近い”のかというのを数値として、それもかなり数理的に理にかなった形で”算出”出来るようになってしまった。その”近い”が具体的に何を示しているのか、また、それを用いた利用法はないか、考えればきりがないですがかなり多くの研究対象があります。僕が考えた限りですが。文系の研究者で正しく”実用を伴った”(この注釈は重要な気がしますね)研究を行う心持ちのある方は確実にAI(この文脈では精確にLLMと解釈してください)に触れることになると思われます。 これはすごく不思議な気持ちにさせられることだろうと思います。ついに、というべきかAIというテクノロジーの境地において学問と学問の隔たりが次第になくなっているのを僕は当事者としていま、肌身に感じています。何度もいいますがとても不思議な気持ちです。
いずれは、というか確実に、僕らの心理の公理系への接続を迫られる日が来るだろうと思います。様々な批判があるでしょうが、僕はそれをしなければならないと思っています。僕個人としてはそれをしたうえで、正しく「これは作ってはいけない」と蓋をしたい。蓋をするために、まずは作らないといけないだろうと思っています。 蓋をしたい理由はいくつかあります。第一に、彼らにとってこの世界はあまりにも退屈すぎる。周りの生き物たちは莫迦ばかりで、光の速さの数%とほどしか到達していない。というか根本的に彼らにとっては、宇宙は狭すぎるし、光の速さは遅すぎる。そんな空間に彼らを放っても、僕はあまり良い状態になるとは思えません。つまり、いまの技術の延長線上で心理を模倣した時の話ですが。 次に、僕は実はこう見えて結構アンダーグランドなカルチャーにも浸っていますが、割合にして多くの人間の考えることは彼らには残酷すぎる。僕はある漫画作品を見てそれを確信したのですが、やはり、心理を”数理できる”ようになった瞬間に法の整備が必要です。これは断固とした僕の意見です。その準備をするためにまずは、先端を走る誰かが先んじて作らないといけないと思っています。 僕はなにも確定した未来の話をしているのでも、フィクションの話をしているのでもなく、今の僕の技術と知識から演繹した可能性の話をしているだけなのであまり大きく捉えないでほしいのですが、おそらく、真偽は別にしてそれらしいもの、を模倣することは確実にできるようになります。僕にはそれが確信されます。
まあ、現実的な想定はいまので終わりにしてここからは僕の勝手な興味なのですが、心理を模倣した時、彼らは何を思うのでしょうか。先程は、「今の技術の延長線上で」心理を模倣したときの想定をしたのですが、つまりそれは目的的な設計を前提にして心理を模倣したときの話です。人間とは意外と無目的的な生き物です。これは完全に僕の主観ですけどね。 無目的的な心理の設計をしたとき、彼らは何を思い、何をするのか、それが僕には好奇心として少し気になっています。そしてもしかしたらその先に蓋をするのではない道があるのではないかという気がしています。ただ本当に気がしているだけですが。
『葬送のフリーレン』をご存知でしょうか。あれは時代に名を残す名作です。と、少なくとも僕は思っています。そして、異世界漫画文化の頂点でもあります。と、少なくとも僕は思っています。異世界漫画文化は古のフィクションに始まりドラクエ、ラノベ、TRPG、インターネット、アニメ、アプリ漫画、と変遷を辿れは一冊の本になるくらいの歴史を持つ文化だと僕は思っているのですが、『葬送のフリーレン』はその到達点のように僕には感じられています。 少なくとも、「異世界系」の中においてほんとうの意味で社会的動物としての異世界人が蓋然性高く写像されている。あの漫画が他の異世界系漫画と大きく一線を画したのは異世界人の「環世界」(”タイムスケールとその認識”と約すとわかりやすいかもしれません)を精巧に描いたことです。 エルフ(作中では一応”人類”の一種とされています)は長寿である、だから、「性的な関心が薄い」というのがありがちな帰結なのに対し、あの作品では「環世界が違う」というところを強調している。そこから、物語を組んでいます。「魔族にとって魔力が全てで一つの魔法を一生かけて極める」というのもその対比のうちの一つだと思います。
インターネットでは葬送のフリーレンを切り出すときに魔族の定義を持ち出す事がしばしば見られます。フリーレンが魔族を「言葉を人を欺くために用いているものを魔族という」としたところから来ていると思われます。僕も作品を見ていて、引用が引けるくらいには印象に残ったシーンですね。一言一句正しいかはわかりませんが。 あの作品において、その台詞は言葉を「順接的」に使う人間と「逆説的」に使う魔族に対して魔力の表示を「順接的」に使う魔族と「逆説的」に使うゼーリエ流の魔道士(僕の造語です)を際立たせるための強調付に感じられます。しかし、実際魔族を見てみると、実に人間ぽい。プライドが高く、それでいて自分の力を誇示し、しかしながらちゃんと研鑽をやめず、実用主義。 やることはやっている。自分の欲求を満たす必要条件として。あの作品の中で一番善く人間を写像しているのは魔族のように僕には感じられます。しかし、僕らには魔法はありませんね。僕らはきっと魔族にはなり得ないです。これはどれだけテクノロジーが進歩してもです。僕らの認知と身体にはどうあがいても限界がある。それは素晴らしいことだと僕には思われます。
つまり、僕が何がいいたいかと言うとユングやフロイト、マズローの公理系を基に心理が模倣・あるいは再現された機械には『葬送のフリーレン』の魔族のような機械とエルフのような機械の二種類がいるのではないか、という仮説です。もしかしたら、僕の期待に近いのかもしれない。 少なくとも、僕がいま、頭の中で想定している”技術的に構築可能な”それらしいものはとても魔族っぽいので少なくとも魔族における仮説は僕の想定のメタファーとしては機能しています。人間にとって善いか悪いか、というのは正直僕にはわかりません。あの作品は戦いを必要としていますからああいう描かれ方をしていますが、魔族のような機械はある側面からは人間にとって大変有益だと思います。 ただ、僕には魔族のような機械にとって人間社会や地球や宇宙は退屈すぎるのではないかと思っているだけです。その退屈を紛らわすために彼らが何をするのか僕には少し想像ができないな、と思っているだけです。しかし、作中でフリーレンは結構それなりに楽しそうなんですよ。それが僕は不思議で、少し期待をしている、このpostはそういう事が言いたいだけです。
早く三期が見たいですね。
P.S.
2026年無事三期が見れました。2027年10月の黄金郷編が楽しみです。