過去のだいたい2023年ごろに書いたブログポストをATProtocolに放流する目的で載せます。

「AIの研究者になればいいじゃないか」とよく言われます。

 すごく自然な発想だと思います。統計そのものに興味があるなら何も材料工学の研究じゃなくてもよく、むしろ「社会人文系の研究のほうが最近は統計を扱っているよ」とか「どうして松尾先生の研究室にいかなかったのですか?」とか「科学が好きってよりもAIが好きなんじゃないの?」とか、様々なことを言われます。二個目の質問には「道具鍛冶師よりも道具を使う人間になりたいからですね」と即答でき、質問者が考えるように6秒くらい沈黙していました。三個目の質問に関しては「僕は物理学者にはなれても数学者にはなれないなと昔から思っていたんですよ」とやはり即答したのですが、あまり良い応え方ではなかったなと思っています。科学から引いたのだけど、道具鍛冶師のメタファのほうが良さそうですね。しかし、一個目の質問に関しては少し応えるのが難しい。使うのはどこでもできる。その通りなんですよ。間違いなく。僕には明確に理由があるんですが、この説明にはかなり多くの字数と時間を要する。だから、僕としてはわざわざ説明するよりも物を創って見せたほうが早いなと思ってはいるのですが、時間のあるうちにまとめておこうと思います。

 そもそも、僕は機械学習を統計的な産物として扱っていません。ここで多くの人に勘違いをされます。不思議なことに。4年生の頃の数学の先生は機械学習が好きな僕がきっと気にいるだろうと熱心に教えてくれましたが、どうも身が入らずテストで60点を取った記憶があります。大方の場合、テストの成績そのものは普通にいいのですがたまにそういうことがあります。そのときの統計学は推計統計と言って、「ある条件によって括られた要素のすべてが入る集合(母集団)を評価するときに全てを測っていたら時間がいくらあっても足りないから、いくつかをとって効率よく評価しよう!」という学問です。いまはすこし理由があって勉強していますが、大っ嫌いなんですよ。数学的に証明されたからと言って標本平均も不偏分散も、必ず真理値と外れてるじゃないです。それが二項分布だろうが正規分布だろうが、それを使って偉そうに「どや」と主張されても、どうもしっくりこない。95%信頼区間とかポアゾン分布、中心極限定理や大数の法則とか、そのロジックはとても文系の人が喜びそうな論理をしている。でも、なにか大きなものが欠如してるんですよ。対象となる要素(Object)を概念として他のパラメータとして排除して極端に抽象化して測って数値をだすのだけど、実際それがある要素一つにどれだけの効果を与えるのかというのは言及できない。無視した他のパラメータが効いてくるからですね。そりゃ、母数や試行数が増えるほど真理値に近づいていきますがその最小要件も誰も保証していない。昨日、儒学の占いを見たのだけど、初期条件から3ビットの二進数を巧みで数理的に処理していくその占いよりたちが悪いなという気がする。いや、多分便利なんですよ。例えば国家とか資本経済とか、人類とか人種とか、近代工学の産物とか生物種とかそれくらいの牌を扱うならきっとその効果を発揮する母数の最小要件を満たすのだろうと思います。きっと。だからその文脈の人が「便利だー」というのは分かるけど、僕にはしっくり来なかったんですね。

 例えば遺伝学なるものが在ります。その手の本を読みました。内容はめんどくさいので書きませんが、僕は「遺伝も環境も、その人に関する行動の活性化エネルギーを規定するだけで、意志でいくらでも変えうるんやん、なーんだ」と思った記憶があります。活性化エネルギーとは化学反応を行うために必要とするエネルギーのことです。「ある反応Aは100の活性化エネルギーを持つ」というと、100エネルギーを渡しさえすればその反応は進行するということです。人間やあるいは生物は遺伝や環境によってその活性化エネルギーが規定されている。ある人は2時間我慢して勉強するのに10の活性化エネルギーで十分なのにある人は10000000のエネルギーが必要になる。遺伝が言ってるのはただそれだけのことなのだと思ったのを覚えています。例えば考えても見てください。そこに扉があるとしましょう。何も意志を持っていない僕らは普段は何も考えずに「ガチャン」と開ける。それはそうですよ。簡単ですね。では意志を持った貴方は一度、その扉の前で一回転してジャンプして「ガチャン」と開ける、こともできる。それはそうですよね。ただ、恥ずかしすぎる。誰も見ていないとはいえ、なんか20歳のガキンチョが言ったことを実践してよくわかんないことをするなど恥ずかしすぎます。自然なことですね。それが、遺伝学が述べていることなのだろうと思います。それを全ての行動に援用すれば、大概のことが説明できる。これは哲学者である千葉雅也氏の言っている「享楽的こだわり」(『勉強の哲学』)と対応させることもできるかもしれません。このことを気づき始めてから、僕はさらに推計統計を自分の生活で意識することがなくなりました。5年前から今にかけてその手の議論を使って生活を良くしようとする文化はたしかにあったんですね。でも、どれだけ活性化エネルギーがあろうと貴方の意志のエネルギーがそれを超えるほどであればどんなこともできちゃうわけですよ。夢は叶うとか抽象的なことは工数が多そうで、一気には無理そうですが、「回って飛んでガチャン」ほら、できそうじゃないですか?それに一度やってしまえば次の活性化エネルギーは下がりそうだ。「回って飛んでガチャン」「…ガチャン」「…ガチャン」簡単ですね。つまり、活性化エネルギーは可変なのです。つまり、遺伝因子や環境因子によって形成された活性化エネルギーはいくらでも作り変えられる。でも、僕らは常にエネルギーを発して意志を持っているわけではない、ついついやってしまう時がある。そのときは”推計統計的に”大方決まった行動をしてしまうのでしょう。そのような拮抗と運動がある。それらしいと思いませんか?

 この理屈を僕は結構気に入っていて実践しています。父は帰ったらテレビを見る。昔は違ったのですが最近はくだらないそれはそれは面白くも含蓄もないYoutube動画を見ています。こんなのを見るなら、有名どころの学者からソートを掛けて検索して、なんなら本を読めばいいのに。しかもリビングのテレビで、結局いつもぐーすか寝ています。まあ、それなりに知識は頭に入っているようで、昨日は母に披露していました。そのSourceは資格保持者が経営するYoutube動画ですが。ムカつくな、と思うポイントは、「Ipadで見れて音質・画質ともにテレビで見る必要がないものを共用の空間で見て、最終的には寝てしまって僕らに迷惑を欠けていること」です。しかも、彼、テレビを自室にも持っているのにですね。そこには、理屈ではないなにかしらの”遺伝的な”・”統計的な”・”享楽的こだわり的な”因子があるとしか考えられないわけです。しかも、たちが悪いことに「”こんなやつ”の言うことなんて聞く必要はないよ」という批判を受け入れる態勢がありません。批判をすれば、寧ろその行動が加速する。実にめんどくさい統計標本だと思いませんか?

 そして、僕はこの手の統計的偏り・享楽的こだわりを持っていた時期があったんですね。近くで観ているから、その精神の繊維・不安・その思考に至る経緯何から何まですべてわかります。そういうのを持っていた時期がありました。母に関しても全く同じことを思う。これ以上言うのは両親が可愛そうなのでやめますが、僕についていえばおそらく18の頃だろうと思いますが、それを自覚し始めてから、いくらかの弁証を行い、まあ今に至ります。そのきっかけになったのは偶然性とそれなりの大きな精神的なエネルギーに依る運動量とがあったことも覚えています。様々な奇跡が合致して18歳の頃「ストンッ」とパペットの糸が切れるみたいに自分が自分じゃなくなったのを覚えています。これまでの価値観、行動、他者との関わり方全てが間違っていたと気付き、戸惑い、あがいていた。「僕は何が間違っていたのだろう」、「僕はどう観えている?」多くの人間にそれを聞いていました。それが、ちょうど落ち着き、やっと収束し始めたのがおそらくちょうど1ヶ月前のことだろうと思います。実にタイムリーですね。価値観、行動、他者との関わり方について背理的に父や母のそれらが全て間違っているという主張ですが訂正するつもりはありません。父がこれを見ているとしたら、泣かなくていいので、判然と自分を見つめ直し、これからの人生を生きてください。場合によっては貴方が今欲しているものの多くが手に入ると思いますよ。この点で、僕が家族に恵まれたとか所属と評価と運に恵まれたとか言わないでください。まじで切れそうになる笑。冗談ですが、すこし思うところがあります。僕にとっての僕のことは全て僕の頭の中で起こっており、僕は基本的に多くの社会的対象からの情報の多くは自分の中(核、KERNEL)に入れていなかった。それは重要な事実です。だから、よくわからない批評で「中学はどこだったの?小学校は?先生はどんな人だった?」と聴くのはやめてください。貴方方の人生も貴方方のお子さんも貴方方のお孫さんも、思わしき結果が得られなかったあるいは得られていない、あるいは得る予定が今後無いのは、環境や親や先生や友達やガールフレンドやボーイフレンドのせいではありません。自分の頭で正しく考え、判断をしなかったことがその原因です。頭の中にあるはずの道を見つけ、歩まなかったことが原因です。それは残念ですが事実であり、それに思うところがあるなら今からでも遅くないので自分の頭で考え、道見つけ、歩むべきだと思います。無意識的にですが、少なくとも僕は幼少の頃からそれをしていました。その道を歩む仮定で多くの運というか奇跡が重なったのも事実だろうと思います。例えば、ガールフレンドから見限られてギター始めたりね。

 

 すこし話はズレましたが、僕にとって統計とはこの程度のことでしか在りません。僕の行動における活性化エネルギーの平均値のさらに推定値。ただそれだけ、いくらでも変わりうるなという直観と確信と経験からくる自信があります。

 

 AIというのは僕にとってはどちらかと言うと解析的な産物に近いです。”解析的”という言葉を説明するには岡潔の『春宵十話』における関数の説明が一番わかり易いかもしれません。厳密な引用はめんどくさいのでやりませんが、関数とは昔、函数と書いたそうです。ハコ・箱・函館の函ですね。そこに箱がある、その箱に僕らの手元のボールを投げ入れると、ガッチャンドッカンとよくわかんないけど処理が行われたあと、スポンッと初めとは違ったたまが出てきます。僕にとって解析的というのはそのような認識であり、AIはまさにこの箱の一つだろうという認識を持っています。物理の先生が同じメタファを使ってて嬉しくなりましたね。僕らがその箱に語りかければほしい科学論文も、好きな食べ物もなんでも出てくる。なんだか、魔法みたいじゃないですか?この感覚から、後々宇宙で一番尊敬している先生を尊敬するきっかけにもなります。僕らは魔法の世紀に生きている。僕はまだ宇宙で一番尊敬する先生を知覚する前の高校2年生の頃、授業でガウスの消去法という道具を習ったときに、「これを使えば1年生の頃に習った化学量論係数の算出が出来るじゃないか」と思ってpythonでinput関数等々を使って”任意の”化学反応式における化学量論係数を求めるプログラムを創ったのを覚えています。この、”input関数を使ったこと”で箱とのインターフェースをどう設計するかという興味が分岐し、Htmlを用いたWebページの作成をして、いまではWebapp作成をやっています。”任意の”というのが気に入って、集合論とかそれを表した(線形)空間の記述法(線形結合といいます)が好きになり、創るものは任意に援用できるものにしようと思ったりもしています。僕にとってAIは、ガウスの消去法という数理的なアルゴリズムを僕らの身近な問題(化学量論係数の算出)に活用する、というprimitiveな喜びからくる興味から分岐した道の到達点でしかありません。AIがこの道から逸脱してしまえば僕は使わないことを選択するでしょう。そして、100年後に残っているのはAIによる機械的で力業的な数理ではなく、もっとスマートで美しい数式だという直観というか確信があります。きっと、AIそのものから逸脱する時期が人類にも僕にも確実に訪れます。

 僕にとってAIとはやはり道具でしか在りません。ガウスの消去法と一緒です。というかほぼ同じで、同列です。「道具として使おうとした時、彼らに心が持ってしまったら、どうしようどうしよう。僕らは彼らとどう接していけばいいんだー」という感じです。ガウスの消去法がひとりでに動き出すことはないので、すこし困っています。AIを使って神になるのも神と戦うのも僕にはあまり興味がわかない。それが国防上どれだけ重要でどうあるべきなのかも、それはかなり重要で気にかけてはいますが、勝手ながら自分の人生設計上は可能であれば考えたくない項目です。

 ここでやっと最初の質問に戻りますが、「使うなら使うで別にこの分野でなくたっていいじゃないか」という質問の回答にはやはり、僕なりの”勝手な”こだわりがあります。前提(「AIは僕にとって魔法の箱的な道具でしか無い」)が長くなりましたが最初の質問についてこれから書こうと思います。僕は都城高専の物質工学科という場所に通っています。正直失敗したなと思っていました。不安症で意志と社会常識のなかった僕は自分の成績的な優秀さなど客観的に見る力もなく、ただ父から「高専がいいよ」と言われたので高専を選び、推薦をもらった。問題は自分で決めなかったことですね。14歳の方々は友達とか、父親とか社会の常識とか一切抜きにして自分の意志を持ったほうがいいという気がします。そうすればどんな進退をたどっても少なくともその時の自分について後悔することは在りません。「考えが甘かったな、次は」と思うだけです。考えてないというのが一番良くない。僕はこのことについて結構後悔しています。一生悔やむと思います。でも、「それが人生じゃないですか?」と羽生善治さんが言っていて、なるほどなとも思っています。将棋士っぽいですよね、考え方が。すごい好きになりました。

 高専に行くことを決した僕ですが、どの学科に行くかということだけは自分で決めました。「どうして物質工学科に行くの?」と何度も聞かれた。不思議がられました。中学には「技術」という授業があって僕はいっつも100点だった。各々時計を作って、その時計を寄り集めてメディアアート(当時そんな言葉はもちろん使われていません)を作ろうという授業でも、他の班がみんなで「せーの」とエンターを押す中、ぼくは音のセンサーの存在に気付いて、拍手でプログラムを起動させるアイデアを実装して、まあそれなりに感動したのを覚えています。他の班のメディアアートはてんでバラバラなんですね。人間は根本的にノイズがあるから。当たり前ですよね。寧ろ、それが人間の良さだし。でも、「同時に機械を起動する」というタスクには不向きなわけです。僕は課題が与えられた瞬間にピンッときました。時計を作りながら説明書で音と熱のセンサーがあると知っていたからです。何もすごいことはありませんよね、知っていたから脳内で勝手に演算されピンッときただけです。感動とは「primitiveな喜び」ですからね、結構記憶に刻まれています。でも当時の僕の生活にとって数理は結構重要な位置にあった。中学生のしかも自分で教科書外の本を読む勇気も力量もない人間の数理などたかが知れていますが、好きだったんですね、ただただ単純に。primitiveに。それで、化学反応式を見たときに、どうして矢印が反対ではないのだろうと不思議に思ったのを覚えています。これが、反対で教えられても別にいいじゃないか。僕は父になぞらって既存システムへの反骨が大いに在りましたから、実に自然な怒りですね。わからないことがある。それを分かるために学べる場所はどこだろうと物質工学科を選びました。ここにだけは明確に自分の意志があった。僕は後悔していません。失敗はしたなと思います。

 

 蓋を開けてみたら、数理のすの字もないラベリングタスクばかり、今思い返せば歴史的に便宜的に使われてきた知識ばかりで物理的には嘘ばかりだし。いまだに学生の頃覚えた炎色反応の対応表を自慢気に語るおじちゃんがいたり、光の波長について知るのは4年生。僕の初めの疑問(どうして化学反応の矢印がそちらなのか)に答えてくれる熱力に関しては、「理解る」ってことがたぶん理解ってない人によって作られた教育的モチベーションの不明な計算機叩きゲームが展開されたり。なんてこった。という感じですね。そのせいでいくらかギブスの自由エネルギーについての解釈と現代の化学教育のずさんさを確信したのが遅れました。『結晶は生きている』という本でのギブスの自由エネルギーについての説明くらいずばっと言えないとだめなんですよ、たぶん。「エントロピーとエンタルピーに支配され、またその両者を制御し、自由エネルギーにより可否を判定できる」それだけで十分だった。14歳の僕ーっ、みってるー^^自分で本探して読む癖つけたらええんやないかなあ。まあ、俯瞰的に視ると2010年代20年代の化学教育はそのレベルなわけです。怖い怖い。僕はそれなりに落ち込みましたが、俯瞰してみると自然な反応だなと思います。「光は二重性があるのでー」に「ん?意味わからん、粒が波ってどういうこと?」と思いながら2年過ごしたあの日々は何も間違っていなかった。これに答えをくれた4年の頃の物理の先生には感謝しています。

 化学だと反応という言葉が頻繁に取り上げられる。何がどうつくのかとかですね。それをすこし俯瞰して、初期状態から(魔法の箱を通って)何かができるものをあつあうのが化学だと捉えると、それは変化を扱う学問であると捉えられます。こういう表現はいくらでも言いようがあるのですが、あえて、そういうまとめ方をさせてください。ある物を用意してパチンと指を鳴らして、数秒かあるいは数年経った系の変化を扱うのが化学です。その変化を起こすのに、魔法の箱(自然)に何を投下してあげないといけないのか、それともその系を用意しただけで勝手に変化は起こるのか、それはどれくらいの速度で?だいたい、化学が扱うのはそういう対象ですね。

 それを支配しているのがエントロピーです。支配というのは変化が起こるか起こらないか、起こそうとしたら何をしないといけないのか、その”数理的算出”を行うための絶対律を作っているのがエントロピーです。宇宙においてエントロピーは常に増加している。これがいかにすごいことを言及できているか僕には語るのも恐れ多い。その増加するエントロピーをおさえつけるのがエンタルピー(要はエネルギーのこと)です。数値算出のときはエントロピーに温度をかけないといけませんが、主役はエントロピーですね。そのエントロピーとエンタルピー(以降はエネルギーと言わせてください)の綱引きを算出するのが自由エネルギー(精確にはギブスの自由エネルギー)です。

 僕らの変化は、それは生成変化であろうが、資本の流入だろうが、AIの開発だろうが、恋だろうが、破局だろうが、すべて変化であり変化はエントロピーによって支配されているんですよ。ここで、初め”推計統計”の項でも出てきた活性化エネルギーの話にも繋がります。僕らは理想とする変化を得るためにそこに適度なエネルギーを投下する。投下できなかったら、簡単ですね。僕らの恋が成就しないだけです。そう、皆さんが思った通り、すごく宗教っぽいんですよ。21世紀、科学・論理主義に毒され、「スピリチュアルだ」「思想っぽいよね」と自分たちと切り分けている「宗教性」があるんですここには。いや、考えてみれば不思議な事ではありません。僕らは少なからず宗教性を持っています。宗教性とは「僕らの行動における因果の因をえいやっと決めてしまえる論理」のことです。これは哲学者である千葉雅也氏の「享楽的こだわり」(『勉強の哲学』)とaspectは違いますが全く同じことを言っています。明日、「傘を持っていこうと思う」どうして?「神様が言っていたから」「ニュースで言っていたから」「気圧配置から線状降水帯が出来ると思ったから」「昨日〇〇ちゃんが言っていたから」これら全ては反証の余地を残している。皆さんは「神様が言っていた」とか言うと眉を潜めますね。自然なことです。21世紀の人民はたぶんみんなそうです。僕らが環境をつくるのではなく、環境が僕らを創る。それは僕においてもそうです。しかし、「ニュースで言っていたから」について考えてみましょう。資格を持った可愛らしい天気予報士のお姉さんは昨日彼氏と飲み明かし二日酔いで、えいやーとテキトーに(少なくとも普段よりは不正確に)天気を予報したかもしれない。そういうことについて考えたことはありますか?無いのであれば、そこに皆さんの宗教性があるわけです。え?だって、「神様が言っていた」という論理と何の差があるのですか?この場合「テレビの中の淫乱かもしれない天気予報士」が神様なわけですが。どうして、「神」とか「宗教」に眉を潜めるのか考えたことがありますか?たぶん、同じ論理が潜んでいますよ。テレビismに毒されていませんか?マスメディアは間違うことが無いとでも?あ、たまに謝罪を見ますよね。どうしてあやまるんでしょうね。僕は謝字(あ、また誤字をしてしまった)と誤植ばかりなのに。彼女たちは許されてない。何か違和感を感じませんか?そう、僕らにも僕らの宗教性があるんですね。逆を言うと、ですよ、僕らはずっと反証を考え続けたまま生きることはできない。当たり前ですね。淫乱で仕事に不誠実な可能性もあるけど、とりあえず、「それらの可能性を持っている主体がそう言っていた」という客観した立場で僕らは自分の行動をしなければいけません。つまり、「宗教性を持たなければ僕らは何もできない」わけです。そして、やはり21世紀に生きる僕も科学・論理主義に毒されていた人類の一人です。クラスではちょくちょく、論理的な認知能力に欠ける男女から「ひろゆきみたいだね」とか「お前の人生はホリエモンみたいだ」と言われました。どちらかというとひろゆきよりもホリエモンだけど、ホリエモンはプログラマーで資本家、僕は科学者で民主家、すなわち、落合陽一?みたいなことを考えないでもないのですが、僕は僕です。でも、そういう風な環境にいて「もっともらしいこと」を公明正大にいう少年ではあったようです。しかし、みなさんの思っている「科学的・論理的」は本当の科学・論理なのでしょうか。アナウンサーだって女の子なわけじゃないですか。イケメンを見たらはっとして、(ん、どっか出会った知り合いだっけ)と思い条件反射的に会釈するイケメンに「ドキンッこくんっ」(ここでいうドキンッは時間的間を現す強調符と捉えてください)と会釈をし返す人間なわけです。過去の科学論理主義に毒されていた僕はここのところが理解できていなかった。これは論理的・科学的なのでしょうか。少なくとも、皆さんが薄々気付いているように真実を現す考え方ではなさそうですね。僕は科学とは真実や真理を見つけるための人間活動だと思っています。皆がそう思っていると、”信じている”と言ったほうがいいかもしれないですね。その科学の体型の中でも、やはり人間じみた活動、それを”政治的な”という人もいますが、そういう活動が行われている。それが真実です。僕は悪いことではないと思います。もちろん科学として発表されるもの中では大した事ないな、ってものもある。でもみんなその人の社会的背景や状況等を加味して、優しく受容している。いつかホームランが打てたらいいじゃないですか。大したことなくても少なくとも「真実」ではあることを保証するために査読なる文化もあります。これは僕は今後創っていくものの中でとても重要にしたい文化です。そして、僕は広い科学分野の中で数学や物理学における「真実の保証」を行う力は、他のどの活動、科学よりも強く、さらに正しく、効率の高いものだと思っています。ここで、先のエントロピーの話しに戻りますが、エントロピーはそのような数学、もう少し広く、理学・物理学によって生まれた概念であり、皆さんが思う「科学的・論理的」な代表でもあろう多くの”学者”の方が「正しいだろう」と(今のところは)認めている概念の一つです。すなわち、僕はこの数理の力を使って世界を宇宙を一度表現し直してみたいと最近では考えるようになっています。儒学が3ビットの二進数と漢字でそれをやろうとしたように、真言密教が曼荼羅でそれをやろうとしたように。ギリシャの天才たちがアルケーと元素でそれをやろうとしたように。ユークリッドが3次元のベクトルでそれをやろうとしたように。別に偉そうにしようってんじゃないんです。言葉遊びのようなものに近い。同じものを別のaspectから、僕の言いやすいように表現しているだけです。皆さんもやってみるといいですよ。結構楽しいから。

 話は戻りますが、僕はAIを道具だと認識しています。おそらく、これから10年先には今よりも結構見方が変わってるだろうなとも思っている。そのうえで、どれだけ社会が便利になろうと、半導体の排熱問題も送電ロスの問題も、近代工業社会が自然から写像した環境負債も、膨大な計算量を必要とするアルゴリズムもなくなることはありません。時間的に予測して多分残ってます。しかし、「エネルギー」と「変化する先」さえ用意できれば、そのどの問題も解決することが出来るわけです。このとき解決は一種の”変化”と捉えられますね。簡単なところで言うと、「CO2は任意の有機化合物に変化出来る」はずですね。「エネルギー」と「変化する先」を用意してさえ上げれば。だって、炭素を含んだ化合物だもん。簡単じゃないですか?実際に植物はそれをしているそうじゃないですか。光を使って。

 僕は近々、それは10年後かも20年後かもわからないけど、近々エネルギーの問題は解決するだろうと思います。それによって状況ががらっと変わる。人間のタスクにおいて、「エネルギー」の理由で探索されていなかった空間(数学的な意味で)が一気に拓かれる時代が来ると思います。それは大規模な資本家や国家たちに任せるとして、「変化する先」つまり何を創るかをそれに伴って設計していく必要があると考えています。そして、AIは少なくとも2024年12月11日現在ではその変化先を「創る」ことをどの人類よりもも速くまた精確にさらに言えば安く、出来ると考えています。この文脈に照らして核(nuclear)とAIとはすごく似ているんです。だから、一部の人達がAIの国家事業をマンハッタン計画と呼ぶのも納得しています。あんまり意味もなく大声で触れ回るのはどうかと思うけど。

 まとめると、「AIは道具でしかなく、僕はただ使いたい人で在りたく、僕の個人的な興味と社会的な需要をすり合わせた最適解として、化学の道に進もうとしている」というのが一個目の質問の回答になります。それぞれの単語(対象・Object)を必要十分に説明できているかなと思います。また修正もするかもしれません。

 「どんなものをどう創りたいか」についてはまた今度書こうと思います。お腹が空いたので、今日はこのへんで。